『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』俺は全力で肯定する! ~前編~
どうも。
sho-ichiです。
他に書きかけのブログもあったんですが、
無性にこの話題を書きたくて衝動が抑えられないので、それに任せて書かせてください!
※と、書き始めたもののドラクエ愛が強すぎてめちゃくちゃ長くなっているので、とりあえず~前編~として途中までを公開します。
ドラクエ と マイ・ストーリー
僕は学生時代にbreakin'(いわゆるブレイクダンス)をはじめ、
その頃は夜な夜な駅とかクラブで踊ったりもしてて、
その後社会人になって仕事をする中でも、HIPHOP的な価値観が羅針盤のごとく自分の人生の判断基準になっていたりするんですけど、
(HIPHOP的価値観が令和攻略法である件はたぶんいずれ書くだろう…)
ゆーてHIPHOPとの出逢いは大人になってからの話でありまして、
何を隠そう、僕の人格を育て、人生において大切な物を全て教えてくれたのは、
120%…いや、5億%ドラクエだったと、言い切れます!!
どれくらいガチでドラクエ好きかと言うと、
ゲームをプレイするだけでなく、『ドラゴンクエスト4コマ漫画劇場』全巻持ってます。(実家にある。)
読んでただけじゃなく漫画描いて投稿するくらい超ガチでした!!
(採用されたことは無いけど…(^^;) まぁ小学5~6年生くらいの時だったしね… )
『ガンガン』はもちろんのこと、創刊から廃刊まで『ギャグ王』も買ってたわ!!
(はっはっはっ。若いヤツや浅いヤツはその存在すら知らんだろう!!)
ドラクエっていうか、ENIXが本当に好きなんですよ。
『魔法陣グルグル』とか『ハーメルンのバイオリン弾き』とかアニメも毎週録画してたわー。懐かしい…
誰も知らないと思うけど『レヴァリアース』って漫画も好きな作品だったな…
ゲームだと『スターオーシャン』も超面白かった…!
なんか主張すべき順序が逆になっちゃったけど、
もちろん作品としての『ドラゴンクエスト』シリーズは超大好きで、
堀井雄二さんにはリスペクトしかないし、
鳥山明さんも(ドラゴンボール世代だし当然)好きだし、すぎやまこういちさんの音楽も超好きで、ドラゴンクエストのオーケストラ版のサウンドトラックも実家にあるよ。(Ⅰ~Ⅴくらいまでだけど)
30周年の時にはライブスペクタクルツアーもさいたまスーパーアリーナと横浜アリーナと2か所で観てきましたよ!
と、
まぁ、ここまで言えば俺がある程度のLvの“勇者”であることはきっとみんな認めてくれますよね…?
是非少しだけ僕の意見にも耳を(目とお時間を)傾けていただきたい…
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のあらすじ(ネタバレ)
ここはたくさんの人が書いているので、超ざっくりとだけ書きます。
※いきなりストーリーのネタバレが出てくるので、見たくない人は一度リレミトしていただいて、映画を観たら是非また来てほしい
※ストーリーは十分知っとるわ!という人はルーラで次の項に飛んでほしい。(あ、初めて読む人は一度訪れてないからルーラは使えないか…)
本当にざっくり説明します。
・産まれてお母さん(マーサ)さらわれてお父さん(パパス)と旅に出る。
・その間子ども時代にフローラと面識ある件、ビアンカとベビーパンサー(ゲレゲレ)助けた件表示される。
→ここまではスーファミ版のゲーム画面。
・ラインハットでさらわれたヘンリー助けに行って、主人公(本作ではリュカ)人質に取られたせいでパパス、ゲマに殺される。
・ヘンリーと脱出して、途中プサン(マスタードラゴン)にも助けられ奴隷生活から解放される。この間スライム(スラリン)ついてくる。
・ヘンリーと別れてサンタローズに帰ってパパスの手紙読んだ後、サンチョがサラエボのルドマンさんのとこに天空の剣があるというので行くことに。
・フローラと再会して、ブオーンを倒したら結婚できるって話になり、一度はやられたんだけどビアンカとも再会して一緒に戦ったら今度は勝った。
・フローラにプロポーズしたんだけど、リュカの本心に気づいたフローラが変化の杖でリュカとビアンカをくっつけた。(このくだりのビアンカが可愛い)
・その後サンタローズでビアンカ出産。男の子(アルス)のみ産まれる。が、その直後ゲマたちが来てリュカは石化。ビアンカも天空人だとわかり神殿に連れていかれたんだけど、ゲマに協力しなかったから結局石化。
・8年後成長したアルスがリュカの石化を解いて、追ってきたギガンテスを倒すのに天空の剣が使えたから勇者だと分かる。
・プサンのところに行って妖精の村に行って過去に戻って幼い自分からドラゴンオーブ手に入れて、プサンがドラゴンになってゲマのところへ。
・マーサは来るなといったけど当然到着し、マーサとは少し話せたが息をひきとる。その後モンスター多すぎだったけどブオーンとヘンリー&ラインハットの兵たちが助けに来てくれる。
・ゲマと一騎打ちになったリュカはゲマを追い詰める。ギリギリのところで倒しきれず「ヤバい!」ってなったところでアルスも加勢して倒す。
・倒したんだけど魔の力が増幅されたゲマはマーサの力を吸収して結局魔界の門を開いてしまう。(書き忘れてたけど、ゲマは魔界の門を空けてミルドラースを復活させようとしてます。)
・門が開ききる前に天空の剣を投げ込めば復活を阻止できる!ってことで、ブオーンがアルスを上空にある門に向かって投げ飛ばす。天空の剣投げ込まれ「やった!!」
→で、ここからが話題の展開
・と思ったらいきなりリュカ以外の時が止まってミルドラースではなく、コンピュータウィルスが表れる。(第三形態のフリーザっぽい)
・この世界はドラクエVのVR版ゲームだよ、ということで、ゲーム内の世界を消していく。
・フリーザっぽいヤツが、自分をつくったゲームの世界が嫌いなヤツからの伝言ということで「大人になれ」と言う。
・VR版ドラクエVに入ってリュカになる前の(現実世界の)主人公がゲームの設定を行うシーンも出てくる。(そこでこれまでのストーリーの「変なとこ」のひととおりの説明がつけられている)
・ゲーム内ではスラリンが実はアンチウィルスソフトだったということでリュカにロトの剣の形状をしたアンチウィルスプログラムと思われるものを託し、リュカがフリーザみたいなヤツを倒す。
・ゲームの世界が元通りに戻って、気付いたみんなが「ミルドラース倒したの?」とか「お前こそ勇者だ」とか言ってくる。
・ラストはサンタローズが見下ろせる山から、ゲームをクリアすると別れることになる家族(ビアンカやアルス、ゲレゲレとスラリン)との時を惜しみながら、「この世界は僕にとっては確かに存在してるんだ!」みたいな感じ。
・最後に「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」って出てくる。
むしろこれこそドラクエらしい
ユア・ストーリーは2回観ました。
本記事は2回目を観に行った後に書いています。
最初に観に行ったときは、ツイッター等で酷評されていること自体は軽く知っていましたが、その内容は全く知らない状態で観に行きました。
率直な感想は「やられた…」でした。
確かに急な展開に驚きました。
一瞬「えっ!?」って思ったし、せっかく没入していた世界から引きはがされる、
何とも言えない寂しいような感覚も確かにありました。
めちゃくちゃいいところでお母さんに「そろそろゲーム辞めなさい」って言われるみたいな感じw
しかし直後にはニヤケをこらえながら満足な気持ちでラストを迎え、
「良かった…これぞドラクエ…」という感覚がじんわり残った。
これが初回の感想です。
音楽が良かったとか、映像が良かったとか、賛否分かれる点の演出の善し悪しとかは、
僕は「映画」というジャンルそのものには詳しくないので触れませんが、
以下に僕なりの感じたことを書きます。
① そもそも「ちょっとハチャメチャ」くらいがドラクエらしい
これは完全に個人的な感覚の問題なんですが、ドラクエってそもそも、キャラクターとか展開にちょっとした「おふざけ」が入ってて、全面シリアスになってないってのが、そもそもの魅力だと思うんですよね。
ラスボスシーンで「世界の半分欲しいです」って一応答えられるようになってたりさ、男にぱふぱふされたりとかさ、そもそもストーリー上フローラと結婚できる選択肢なくてもいいじゃん?リメイク版では姉ちゃん(デボラ)まで出てくるしw
ところどころ「おい!!!?(笑)」
みたいなツッコミ入れながら、それなのに感動させられちゃう、考えさせられちゃう、みたいなところが、ドラクエシリーズに一貫した世界観かなと思うので、あのラストじゃないにせよ、少なくともあのまま「めでたしめでたし」じゃなくて、僕は逆にグッときましたけどね。
②攻めてる感じのキャラ設定が良かった
今作、ラスト以外の部分には肯定的な意見がそもそも多いようですが、中にはストーリーが端折られて改変されていることや、キャラのイメージが違う、というようなところで残念さを感じている方もいるようですが、
僕はそもそもドラクエのキャラクターって色んな解釈(設定)があって良いものだと思っています。
最初に書きましたが、僕はドラクエの世界観をゲームだけでなく、4コママンガ劇場で育みました。(もちろんアニメ『ドラゴンクエスト』や『ダイの大冒険』、『ロトの紋章』とかもだけど)
だから、そもそも同じキャラクターに対してクールに描いている作家さんもいれば間抜けに描いている作家さんもいたりするのが当たり前で、ゲーム『ドラゴンクエスト』を原作にした作品は、そもそも原作どおりじゃなくて、そこに創り手なりの設定が加えられてしかるべきで、その設定ごと楽しむものだと、僕は思ってるんですよね。
(例えばⅣのクラフトがアリーナ好きでザラキ使いまくるみたいな設定も、もとは漫画の中のテッパンネタだったものが定着しただけで、オリジナルのゲームではそんな描写無いですからね。)
だから、登場人物のビジュアルも含めたキャラクターは、「今作のクリエイター陣はこういう設定にしたんだー。」って楽しめば良いだけのことなのです!
(で、どちらかと言うとゲームでは当たり前だけど無口な勇者(主人公)は、概してコミカルでユーモラスなキャラクターとして描かれることの方が多いと思っていて、今回のリュカやビアンカ、フローラのキャラクターも全然良かったじゃん!ってゆー。)
~後編~の予告
さて、「俺的には自分のドラクエ感に合ってて良かったと思うよ」では、「全力の肯定」にはなってないですよね。
ここからが本題です。
後編では、全力で
僕らにとって『ドラゴンクエスト』とは何なのか、
もっとも大事にすべき本質は何なのか…
それを踏まえて『ユア・ストーリー』の展開はなぜ良かったのか、
きっちり解説します!!!
お楽しみに♪
残業時間や有休日数で「働き方改革」は勘違い。
どうも。
sho-ichiです。
「働き方改革」が叫ばれる昨今ですが、皆様の働き方は改革されてますか?
ノー残業デーが設けられたり、
義務化もされたので有休を最低5日は取らなければいけなくなったり…
そういう意味では、既に「働き方改革」の波からなんらかの実質的な影響を受けている人は多いと思います。
ちなみに、予め誤解が無いように補足しておきますが、ノー残業デーを設けることや、有休取得が促進されること、これ自体について、私は悪くない取り組みだと思っています。
だから今回のテーマは、
ノー残業デーや有休取得義務化への反対ではありません。
もう少し別の角度というか、もっと本質的な部分について掘り下げて考えていきたいと思います。
【残業時間や有休日数で「働き方改革」は勘違い。】
結論から言うと、
「残業を減らしましょう」とか「有休を取得してください」は「働かせ方改革」ですよね?
働かせ方というとわかりにくいですが、
要するに、会社が、社員に対して設けている働くときのルールを見直しましょう。
っていうか、より厳格に守らせましょう。という話ですよね。
間違った「働かせ方改革」
よくありがちな間違いは(勘違いというレベルじゃないやつは)
ただ単に「残業させない」「有休を取らせる」ということそのものが目的化されて、しかも社員に強要されるケースです。
仕事そのものの質や量に変化が無く、単に使える時間を減らされるという事態は、もともと3分かかるゲームを2分でクリアしろと言われているようなもので、当然その難易度は上がります。
もともと残業しがちだったり、有休を取れない社員は、
現時点で仕事というゲームをクリアするのに難しさや大変さを感じていたり、逆にじっくりプレイしてハイスコアでクリアすることを目指していたり…3分を必要としているわけです。
だから、いきなり上から「残業するな」「有休取れ」と言っても、
社員はゲーム(仕事)をきちんとクリアできなくなるか、或いはスコア(成果)が落ちるリスクを伴います。
勘違いは「働き方改革」を「時間」で計ることで生まれる
さて、ここからが本論です。
現状「働き方改革」が叫ばれている背景には、雇用者が立場の弱い被雇用者に不当な長時間労働を強いているのではないかという問題意識があると思います。
確かに私も約10年営業マンをやっていましたので全ての残業に賃金が伴わないことは痛いほどよくわかっています。
しかし
そもそも、正社員の労働を「時間」で計ること自体おかしくありませんか?
仕事の「時間」に対して対価が支払われるのはアルバイトやパートタイムの契約です。
日本の多くの正社員は月給制です。
そして、あからさまな年功序列は衰退しているものの、社歴を重ねることで安定して給与が上がる仕組みも健在です。
ということはすなわち、会社としては社員に対して毎月ある一定の働きを期待し、年々その働きが向上することも期待しているわけです。
その働きの対価として毎月給料が支払われ、毎年昇給するわけです。
さて、ここで考えてみましょう。
今の時代、同じ「時間」働けば同じ成果が出るなんてことありますか?
もっと言えば、成績優秀な社員と同期の成績が最下位の社員の同じ「時間」は同じ成果ですか?
ここにも、前回書いた高度経済成長期時代のまるで機械みたいに「みんな同じ」を前提にした、旧時代の価値観が垣間見えます。
本当の「働き方」改革
さて、とは言え、実質的に社会で求められている課題は「残業を減らしましょう」「有休を取りましょう」です。
会社もその課題に応えなければブラック企業というレッテルを貼られてしまう時代です。
そういった現実の課題を踏まえて考えると「働き方改革」の本質が見えてきます。
すなわち「働き方改革」が目指していることは「労働時間の短縮」ではありません。
「時間内でいかに効率的に仕事の成果を上げられるか」ということを目指して、まさに社員自身が働き方を改善することが求められているのです。
そして、そういった流れの中で、
「同じ時間でもっと成果出してるんだから、仕事の成果で評価してよ」とか
「きちんと成果出してるんだから働く時間とか場所とか関係なくない?」という声が当然出てきます。
それが、現代において成果報酬やフレックスタイム、テレワークが叫ばれる理由でもあります。(何も働くお父さん、お母さんのためだけに推進されているわけじゃないのよ)
「働かせ方改革」ならゲーム自体の設定を変えよ
今回のテーマは「働き方改革」なので少し趣旨からは逸れますが、せっかくなので「働かせ方改革」の正しいやり方についても最後に触れておきます。
もし経営者側の立場で、社員に「残業させない」「有休を取得させる」という目標を目指すならば、まず整備すべきは社員がそれを実現できるようにするためのフレームです。
仕事というゲームステージの設定そのものを変えることです。
例えば、みんなが苦戦しがちなステージでは強力な武器を使えるようにしたり、そもそものクリアまでのステージ数を減らすことで、所要時間は減らすことができます。
仕事に置き換えれば、時間のかかる事務処理を効率化するために新しい業務システムを導入したり、一定以上の受注があった時にはアウトソースする提携事業者を探しておくなど、社員の負荷そのものを下げる経営努力が伴えば、「働かせ方改革」も社員の「働き方改革」として成功させることができます。
こういった社員の働く環境整備は、経営者側にしかできないことなので、いち被雇用者として、是非積極的に検討される社会になってほしいものです。
「みんなと同じ」は価値がない
はじめまして。
sho-ichiといいます。
色々と思うところがあって「ブログやんなきゃ!」と思い立ち、そこから何度か「できない理由」をこねくり回して先送りしてたんですが、いよいよ「できない理由」も出し飽きまして、お陰で悲願のスタートに至りました。
スタートできた理由は、ブログに手を出すに当たっての「マイルール」がようやく自分の中で確立できたからかな。
本来なら1から10まで順序立てて、相手の疑問まで先回りして説明してしまう性分なんですけど、それやってたら書くのにめちゃくちゃ時間がかかってしまって更新頻度が落ちる…場合によっちゃ持久力が切れて辞めちゃうか、
もっと最悪なのは真面目な性分が仇となって義務感にさいなまれながら書く…
みたいになりそうだったので、
ブログは頻度が大事。
続けてなんぼ。
と仮定して、
自分のことは少しずつわかってもらえれば良いと割り切り、
①自分のことは記事と関連して必然性が発生するまでわざわざ説明しにいかない
そのかわり
②1つの記事で必ず1つ、自分の考えを示す
ということにしました。
これが「マイルール」です。
「マイルール」創るのって結構これからの時代大事だよね。と思ってるんだけど、
その話し始めるとさっそく②のルールから逸脱しそうなのでそろそろ今回の本題に入ります。
【「みんなと同じ」は価値がない】
私は通信制高校で教員をやっています。
ここ2〜3年は卒業式の時にはこのような趣旨のことを最後のメッセージとして送っています。
いわゆる「学校」というのはどちらかと言うとその逆方向の美徳を重んじてきた歴史があると思います。
戦後から高度経済成長期などは、文字通り国民の教育"水準"、所得"水準"を高めることで急激な成長(復興)を成し遂げてきた国ですから、もちろんかつてそこには価値がありました。
大企業などの安定して高所得が得られる受け皿が確立し、フレームに沿ってみんながある程度の水準を目指してそこに達すれば、成功が見えていた時代です。
同一規格の高品質な製品を大量生産して大量消費させるビジネスモデルである自動車や家電製品などの機械工業との相性も良かったと思います。
しかし、現代はそうはいきません。
というか、
そもそも実際の社会は「一定の基準を満たせば合格」という単純なものではありません。
「同一規格」でただ作っているのは社内から見た時の視点であって、昔から企業そのものは、競合他社との競争にさらされ、技術やデザインやアイディアなど様々な側面から「いかに他社と違うか」というシビアな戦いを繰り返していたわけです。
しかし、工場の機械と同様に、生産する過程では品質が高くて安定した人材が大量に必要なわけです。機械がそれぞれプログラムから逸脱して勝手に違うことしだしたら困るのと同じです。だから、経営や企画開発に携わるような一部の社員以外には、みんな同じように高品質であることが求められ、それが社内の評価となり、社会一般の評価となるわけですから、学校にも同じように、きちんとルールを守り、真面目で勤勉で、極力高い学習能力を持つ人間の育成が求められ続けてきました。
さて、繰り返しになりますが
現代はそれだけでは通用しません。
そもそも市場において価値があるのは、本当は「みんなと違う」ことだったわけです。「他では手に入らないもの」「他よりも美味しいもの」「他よりも綺麗なもの」など。
多くの人がそのことを考えずに、社内では「みんなと同じ」ように仕事をすれば良かった時代があったというだけの話です。
しかし現代は、情報化により誰もが自らのアイディアを発信できます。他の人が思いつかないアイディアがアチコチからゴロゴロと生まれていきます。昔であればそれらのアイディアはカタチにならなかったかもしれませんが、今はその情報をキャッチするインターネット上の情報網があります。アイディアを持つ人と、それを作ることのできる人、それを売ることができる人…などが容易に協力してカタチにすることごできるようになりました。
大企業自体は資本も人材も含めて体力があるのでまだまだ潰れたりはしないと思います。
しかし、大企業もそういった新しい市場で戦うため、ベンチャー企業とアライアンスを組んだり、若手社員のアイディアから事業を生み出すような試みをとっくに進めています。
要するに、今は個人や中小企業でも戦えるし、
たとえ大企業にいても、年功序列や終身雇用はとっくに終わりを迎え、その中で個々人が実力勝負をしている時代なのです。
その勝負の土俵はいかに「みんなと違うか」です。
だから、
今は「みんなと同じ」であることよりも、
ひとつでいいから「みんなと違う」があること、
そして、「みんなよりできない」ことがあったとしても、それを補ってくれる「自分と違う」他者とコミュニケーションが取れて協力できる能力の方が、大事なのです。
冒頭に戻りますが、
通信制高校の生徒は「みんなと同じ」レールから外れていると捉えられます。特に「学校」では。…まだ。
何故なら教員の世界は、
「みんなと違う」価値によって評価されたり、それが無いことによる淘汰が起きない閉じられた社会です。
だから、なかなか学校の先生は「みんなと違う」ことの評価ができません。というか、その評価の仕方を知らないし、ひどい場合には「みんなと違う」ことを問題として扱います。
私はもともと10年近く民間企業にいたので、
「みんなと違う」ことに劣等感を感じたり、そのせいで自分を卑下したり、なんとか最低限「みんなと同じ」になろうとしている生徒には、どうしてもその逆のことを言いたくなるのです。だってその「みんなと同じ」土俵では、いくら頑張っても勝てる見込みは薄いですから。
それだったら「みんなと違う」ことを受け入れて、良い部分を伸ばした方がよっぽどいい!
自信を無くして引きこもるくらいなら、嘘でもいいから自信を持たせて、臆することなく他者と関わり、苦手な部分を補ってくれる仲間を見つけられた方が絶対いい!!
そう思って私は
【「みんなと同じ」は価値がない】
という話を、いつも最後に送っています。