昭和男子の令和時代攻略法

幼少期は友達ゼロ人。だけどゼロから作品やイベント、そして組織を創ることかできるようになった昭和男子のマイライフ!

「みんなと同じ」は価値がない

はじめまして。

sho-ichiといいます。

 

色々と思うところがあって「ブログやんなきゃ!」と思い立ち、そこから何度か「できない理由」をこねくり回して先送りしてたんですが、いよいよ「できない理由」も出し飽きまして、お陰で悲願のスタートに至りました。

 

スタートできた理由は、ブログに手を出すに当たっての「マイルール」がようやく自分の中で確立できたからかな。

 

本来なら1から10まで順序立てて、相手の疑問まで先回りして説明してしまう性分なんですけど、それやってたら書くのにめちゃくちゃ時間がかかってしまって更新頻度が落ちる…場合によっちゃ持久力が切れて辞めちゃうか、

もっと最悪なのは真面目な性分が仇となって義務感にさいなまれながら書く…

みたいになりそうだったので、

 

ブログは頻度が大事。

続けてなんぼ。

 

と仮定して、

自分のことは少しずつわかってもらえれば良いと割り切り、

 

①自分のことは記事と関連して必然性が発生するまでわざわざ説明しにいかない

 

そのかわり

②1つの記事で必ず1つ、自分の考えを示す

 

ということにしました。

これが「マイルール」です。

 

「マイルール」創るのって結構これからの時代大事だよね。と思ってるんだけど、

その話し始めるとさっそく②のルールから逸脱しそうなのでそろそろ今回の本題に入ります。

 

 

【「みんなと同じ」は価値がない】

 

私は通信制高校で教員をやっています。

ここ2〜3年は卒業式の時にはこのような趣旨のことを最後のメッセージとして送っています。

 

いわゆる「学校」というのはどちらかと言うとその逆方向の美徳を重んじてきた歴史があると思います。

戦後から高度経済成長期などは、文字通り国民の教育"水準"、所得"水準"を高めることで急激な成長(復興)を成し遂げてきた国ですから、もちろんかつてそこには価値がありました。

 

大企業などの安定して高所得が得られる受け皿が確立し、フレームに沿ってみんながある程度の水準を目指してそこに達すれば、成功が見えていた時代です。

同一規格の高品質な製品を大量生産して大量消費させるビジネスモデルである自動車や家電製品などの機械工業との相性も良かったと思います。

 

 

しかし、現代はそうはいきません。

 

というか、

そもそも実際の社会は「一定の基準を満たせば合格」という単純なものではありません。

 

「同一規格」でただ作っているのは社内から見た時の視点であって、昔から企業そのものは、競合他社との競争にさらされ、技術やデザインやアイディアなど様々な側面から「いかに他社と違うか」というシビアな戦いを繰り返していたわけです。

 

しかし、工場の機械と同様に、生産する過程では品質が高くて安定した人材が大量に必要なわけです。機械がそれぞれプログラムから逸脱して勝手に違うことしだしたら困るのと同じです。だから、経営や企画開発に携わるような一部の社員以外には、みんな同じように高品質であることが求められ、それが社内の評価となり、社会一般の評価となるわけですから、学校にも同じように、きちんとルールを守り、真面目で勤勉で、極力高い学習能力を持つ人間の育成が求められ続けてきました。

 

さて、繰り返しになりますが

現代はそれだけでは通用しません。

 

そもそも市場において価値があるのは、本当は「みんなと違う」ことだったわけです。「他では手に入らないもの」「他よりも美味しいもの」「他よりも綺麗なもの」など。

多くの人がそのことを考えずに、社内では「みんなと同じ」ように仕事をすれば良かった時代があったというだけの話です。

 

しかし現代は、情報化により誰もが自らのアイディアを発信できます。他の人が思いつかないアイディアがアチコチからゴロゴロと生まれていきます。昔であればそれらのアイディアはカタチにならなかったかもしれませんが、今はその情報をキャッチするインターネット上の情報網があります。アイディアを持つ人と、それを作ることのできる人、それを売ることができる人…などが容易に協力してカタチにすることごできるようになりました。

 

大企業自体は資本も人材も含めて体力があるのでまだまだ潰れたりはしないと思います。

しかし、大企業もそういった新しい市場で戦うため、ベンチャー企業とアライアンスを組んだり、若手社員のアイディアから事業を生み出すような試みをとっくに進めています。

 

要するに、今は個人や中小企業でも戦えるし、

たとえ大企業にいても、年功序列や終身雇用はとっくに終わりを迎え、その中で個々人が実力勝負をしている時代なのです。

 

その勝負の土俵はいかに「みんなと違うか」です。

 

だから、

今は「みんなと同じ」であることよりも、

ひとつでいいから「みんなと違う」があること、

そして、「みんなよりできない」ことがあったとしても、それを補ってくれる「自分と違う」他者とコミュニケーションが取れて協力できる能力の方が、大事なのです。

 

冒頭に戻りますが、

通信制高校の生徒は「みんなと同じ」レールから外れていると捉えられます。特に「学校」では。…まだ。

 

何故なら教員の世界は、

「みんなと違う」価値によって評価されたり、それが無いことによる淘汰が起きない閉じられた社会です。

だから、なかなか学校の先生は「みんなと違う」ことの評価ができません。というか、その評価の仕方を知らないし、ひどい場合には「みんなと違う」ことを問題として扱います。

 

私はもともと10年近く民間企業にいたので、

「みんなと違う」ことに劣等感を感じたり、そのせいで自分を卑下したり、なんとか最低限「みんなと同じ」になろうとしている生徒には、どうしてもその逆のことを言いたくなるのです。だってその「みんなと同じ」土俵では、いくら頑張っても勝てる見込みは薄いですから。

 

それだったら「みんなと違う」ことを受け入れて、良い部分を伸ばした方がよっぽどいい!

自信を無くして引きこもるくらいなら、嘘でもいいから自信を持たせて、臆することなく他者と関わり、苦手な部分を補ってくれる仲間を見つけられた方が絶対いい!!

 

そう思って私は

【「みんなと同じ」は価値がない】

という話を、いつも最後に送っています。