昭和男子の令和時代攻略法

幼少期は友達ゼロ人。だけどゼロから作品やイベント、そして組織を創ることかできるようになった昭和男子のマイライフ!

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』俺は全力で肯定する! 〜後編(本編)〜 新説あり!

どうも。

sho-ichiです。

 

前回、衝動に駆られて書き出したところ

長くなりすぎた『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の肯定意見ですが、いよいよ本題です。

 

僕としては『ドラゴンクエスト』を映画化するにはこの方法しか無かったし、最善策だったと断言します!!

 

※映画のあらすじや、僕のドラクエ歴(ENIX遍歴)は前回のブログに掲載してます。

newedu.hateblo.jp

 

 

これが最善の策だった!!

さて、早速核心ですが、僕は今回の作品『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が、

というか『ドラゴンクエスト』という作品そのものが一貫して最も大切にしているものは、

プレイヤーひとりひとりが主人公であり、各自が持っている「ドラクエ像」こそが真実である、という世界観だと思います。

 

本作はその『ドラゴンクエスト』の本質を確実に守り抜きつつ、改めて自分自身の中のドラクエの魅力を強く回顧させてくれる機能があったし、それこそがこの作品の素晴らしく秀逸なところ、かつ、本当のねらいだったんじゃないでしょうか。

 

わかりやすく言うと、

ドラクエ世界を具現化することで、「やっぱドラクエいいよなー」とプレイヤーに想い起こさせるキッカケをめちゃくちゃ綺麗に描いてくれて、だけど最後に

「このストーリー楽しんでくれたのは嬉しいけど、映画だからっつってこれが"公式な"ドラクエの世界観だとか思ってないし、そんなこと押し付けるのってドラクエらしくないっすよね!」

「本当の『ドラゴンクエスト』の世界はゲームでプレイした時に、そのプレイヤー自身の中にのみ生まれるもので、それこそがドラクエの魅力だよね!」

 

と宣言して、ゲーム『ドラゴンクエスト』を題材に作品づくりをする、映画化という試みそれ自体も、『ドラゴンクエスト』の楽しみ方だと言わんばかりに、ドラクエの懐の深さを示してくれる。

 

それによって

やっぱドラクエ最高かよ!!

 

ってなりました。

 

前回も書いたけど、

漫画とかでそれぞれ自由に解釈されて、作品ごとに違う魅力を発信して良いってのが、ドラクエのいいところっすよね。

だってフィンガーフレアボムズとかゴメちゃんとかゲームでそもそも出てきてなかったじゃん!

 

 

ドラクエの本質は「自分」が主人公であること

 大まかな主張は前項の通りですが、

ひとつひとつおさらいしていきましょう。

 

さて、まずは思い出して欲しいんです。

僕らがドラクエの何に魅力を感じてきたのかを。それはまさに自分自身が物語の主人公になれることですよね。

 

ドラクエは常に「自分が主人公として主体的に世界の中で冒険する」ための仕掛けづくりを最重要視してつくられてきたと僕は考えています。

 

30周年のライブスペクタクルツアーのテーマにもなってたけど、ドラクエに外せない「名前」をつける行為。決まったストーリーをなぞるだけなら要らない機能だったはず。

それどころか、職業決められるようになったり、仲間選べるようになったり、途中から性格診断してそれによってパラメータ変わるようにリメイクされた時もありましたよね。

あとは前回も書いたけど絶対「いいえ」って答えないと先進まない展開だとしても敢えて自分自身で答える機会を用意したり、花嫁選べたり、ストーリーと関係ない道草食えるようになってたり…

 

これは断言して間違ってないと思うけど、

ドラクエの主人公は常にプレイヤーひとりひとりであって、

 

プレイヤーがドラクエの世界で自由に、実際に生きられる

 

それを実現しようと追及してきたのが『ドラゴンクエスト』だったと思います。

だからそのストーリーは当然プレイヤーの数だけある。

そして、それらは全てが当人にとっての唯一無二の真実のストーリーなのです。

 

逆に考えてみてください。

あのまま「リュカ」という主人公の物語を最後まで観て「めでたしめでたし」で満足できますか?

自分自身の持ってるドラクエ像との微妙な違いに「良かったけど、もう少しこうだったら良かった…」みたいな小さな不満足がアチコチに小さく広がって、注目もされず消えていったのではないでしょうか?

 

 

味わうべきはドラクエの世界ではなく、ドラクエと出逢えた人生の素晴らしさ

 さて、ラスト手前で否応無しにメタ認知させられたわけですが、

その後のエンディングがとっても素晴らしいじゃないですか!!

 

何回も言いますけど、もし仮にあのまま「リュカの物語」だったとしてハッピーエンドになりました。そしたらどうですか?

「(リュカたち)よかったね」

で終わりですよね?

 

でもあの終わり方のお陰で、

「(ドラクエと出逢えて)よかったなぁ…(俺)」

って僕はなりました。

 

リュカはフリーザみたいなウィルスにこの世界はVRだと気付かされたわけです。そうして迎えたエンディングですが、

じゃぁ、もうビアンカやアルス、ゲラゲラやスラりんのことを大切に思っていないか?

そんなことないですよね!?

愛に満ちたラストだったと思います。

 

では、じゃぁ、リュカはこのままこの世界に留まっていたい、この世界がVRだという現実を受け入れたくないか、

これも違いますよね??

家族との時間を惜しみながらもサンタローズに(ゲームのエンディングに)向かっていくわけです。

 

でも、

これこそが、

プレイヤーとして『ドラゴンクエスト』を愛している僕らのリアルじゃないですか!?

 

全クリして嬉しい、とか、

ストーリーが感動した、とか

そういう楽しみ方じゃないですよね。

そもそもドラクエって。

 

実際にゲームの中で冒険をして、

仲間との別れがあったり、挫折や成功があって、ドラクエの中で冒険するお陰で、

「仲間を大切にしなきゃ」とか「時には勇気を出して戦わなきゃ」とか、実際に自分が成長できる。

まさに、ゲームを通して自分の人生を生きられるからめちゃくちゃイイんじゃないですか。

 

そもそもドラクエは自分の人生と不可分なわけです。

 

ドラクエドラクエの世界の中で閉じてたらそれこそドラクエじゃないんすよ!!

そのことにきちんと作品の中で触れてくれたことが、僕は嬉しかったですね。

 

ドラゴンクエスト』はゲームとして現実にそこにあるからこそ、

自分の人生といつまでもともにあるわけで、あのラストは決して別れじゃなかったんだと思うんですよね…

 

 

言いたいことはわかるがそれも「想定内」なのでは…?

 

ドラクエはプレイヤーが主人公だから敢えてどんでん返しを仕組んで、

このストーリーもあくまでもリュカって人のストーリーだったんだよ。

っていう展開にするのがBetterだった、という意見は ある程度理解されるものと思います。

 

が、多くの人が言いたいのは、

フリーザ風ウィルスの「大人になれ」発言に対して納得がいかない、

とか

映画のストーリーがゲームだったという展開にするにしても、もう少しマシな方法があるだろ!

ということなんですよね…(^^;)

 

ここはまぁ、正直そういう意見があることはしょうがないと思います。

否定はできません。僕も概ね悪くなかったとは思っていますが、

何もドラクエⅤのスーファミカセットまでリアルに登場させなくてもいいのに…

とかは思いました…

 

ただ、このシーンの「見せ方」についてはあまり深く考えなくて良いのでは?

と思っています。

 

①敵キャラの発言にそんなに過剰反応しなくてよい

これは至極シンプルな意見なんですが、例えば悪役が「人間など生きる価値も無いわ!」って言ったら、その悪役が出てくる映画そのものを「なんてひどいメッセージを発する映画だ!」ってなります…?

あくまでもあれはゲームを否定している悪役からのメッセージなんだから、別にいいんじゃない?と思いました…

 

②そもそもこれは一見さん向けの作品ではない

中には今の時代は「ゲーム=子ども」という図式は成り立たないから、敵キャラの発言とはいえ的を射てない、という意見もたくさん見受けました。

が、これも断言します。そもそもこの作品はあくまでも長年のドラクエファンをターゲットにした作品だと思います。今現在20代後半~40代くらいの大人にとっては、

たとえ今そうでないとわかっていても、そういう経験とか先入観と戦ってきた歴史って持ってる人が多いと思います。

だから、これは敢えてあの古臭いメッセージを発信したんだと僕は思うんですけどね…

 

ラスト前のどんでん返しの話からは離れますが、批判の中には「初めて見た人にはわからない」という声もたくさんありました。特に前半かなり端折られていましたし…

でも、これも同じロジックで、ある程度初めて見る人でも楽しめるように端折りながらも大枠のストーリー詰め込んではいましたが、基本的にはプレイヤーひとり一人の記憶を借りながらストーリーを補完する仕組みになっていたと思いますよ。

(例えばフローラがお婆に変身してたのも変化の杖を使ったからですが、あれが「変化の杖だ」という説明してないから、「この世界ではだれでも魔法が使えるの?」みたいな解釈になっちゃうと思います。でもそんなこといちいち説明してらんないですよね…)

 

③使い古されたオチは選択肢でしかない

あとは、「現実だと思っていた世界が実はゲームでした」とか「夢でした」っていう展開がありきたりであるというような批判も目立っていたような気もします。

が、ありきたりなくらい使い古されたものであればなおさら、別に使ったっていいじゃん。と思いました。

まして、『ドラゴンクエスト』はそもそもゲームなわけで、「ゲームでした」ってオチには必然性もあるわけで、「突然すぎる」という批判もあると思いますが、そもそも最初からゲームじゃんwっていう…

それに、僕としては、そのあとのサンタローズの見える丘のシーンがオチというかラストシーンだと思うので、別に悪くなかったと思います。

 

それに、あの展開のおかげで、

妖精の村でロボットが出てくる件だけでなく、

幼少期が省略されていることとか、主人公のキャラが頼りないこととか、子供が双子じゃないこととか、フローラに対して失礼すぎだろ!とかいう様々な違和感にも説明がつけられている(これはドラクエVのオリジナルを映画にしたものではないですよと)

ということも、よかったと思います。

 

 まだほとんどの人がたどり着いていない真実…?

 最後に、僕も核心は持てていないのですが、

まだ引っかかっていることがあるんです…

 

それは

追加キャラクター 1

 

とは誰のことなのか?という点です。

 

本作ではオリジナルの設定も結構たくさんありました。

しかし主だったキャラで、原作にいない追加キャラっていました??

 

この件に関しては、この方の視点が突破口なのではないか?と感じました。

転載させていただきます! 

omamesensei2.hatenadiary.jp

 

 すなわち、

最後に出てきたフリーザ風のウィルスというキャラ自体が

追加されたゲーム内のプログラムそのものだというものです。

 

で、この方の記事には書いていないんですが、

僕は「その証拠」となるシーンについても当たりをつけています。

 

皆さん覚えていらっしゃると思いますが、

プサンがエルフの村をロボットが守っているという話をした時に

「今回は」と言っていましたよね。

それは、VRで主人公がそう設定したからです。

 

そして実は、もう一箇所「今回は」と発言されているシーンがあったことはご記憶されていますか?

 

それは、マーサが死ぬ直前です。

「今回(のミルドラース)は」今までと違う、

みたいなこと言ってましたよね。

ウィルスくんもマーサは気づいていたようだ、というようなことを言ってましたから、

マーサがウィルスに気づいていた、ということは、皆さん納得かと思います。

 

もし仮にこの「今回は」というワードが、ゲーム内の設定だという意味を表すキーになっていたとしたら、追加キャラクターとして現れたウィルスそのものの存在も、ゲーム内の演出ということになりませんか?

 

そうすると、

今まで「映画の途中で現実に引き戻される」と非難していた映画作品が

主人公が体験しているVR作品と全くイコールになりますよね。

となると、

僕らは「「途中で現実に引き戻された」という演出を伴った劇中のVR作品そのものを、映画の上映から終了まで、結局現実(映画館に行っている私)に引き戻されることなく最後まで楽しみ切っている」ということになってしまうのです!

 

 

【解説】

(映画ユア・ストーリー)=(DQⅤ)+(本当はVRだったという現実)

上記のように解釈していたために、後者は要らないだろ!とか、そういう設定だとしてももっと良い表現が!と議論されているわけですが、

実は

(映画ユア・ストーリー)=(DQVをモチーフにしたVRそのもの)

※そもそもラスボスがウィルスという設定のVRゲーム

なのではないか?ということ。

 

 

でも、

だとしたらこれ、

めちゃくちゃすごくないですか??

 

「あの作品はなんなんだ!!」

と気付かずに酷評してる間中、その人はまだずっと、その作品(VR=映画)の中に没入させられてるわけです!!

 

少なくとも

映画そのものは確実にわざとあのシーンを入れ込んでるわけで、

そういう意味では、

きっと同じように(スクエア)ENIXのスタッフが作ったであろう映画内で登場するVRゲーム自体も、映画と全く同じく、わざとあのキャラを登場させていると考えてもおかしくないですよね??

 

で、

もし仮に今回の映画が

(映画ユア・ストーリー)=(DQVをモチーフにしたVRゲームそのもの)

だとしたら、

さっき説明した、

 

ドラクエというゲームは自分のリアルな人生と不可分である

 

って話ともピッタリ合致するんですよ。

現実とドラクエは分かれていないんです。

現実=ドラクエなんです。

 

これに気づきまして、

 

完全にやられた…!!!

そして、みんなまだやられ続けとるww!!

 

 

ってなっているわけです。

 

 

最後に

 そんなわけで僕としては、

この作品はかなり深いし、

ドラクエの実写化」とか、「ドラクエを題材にしてファンに何かメッセージを伝えてる」とかいうレベルじゃない!と思いました。

 

ドラゴンクエスト 』という作品とプレイヤーの人生との関係性そのものを完全に表している作品なのだ…と震えているわけです。

 

この説、

もし賛同してくださる方がいれば、是非シェアしてください!!

今の世間の酷評を、もし僕らの手で変えられたら、そんな素晴らしい冒険は無いと思います!!

 

 

ちなみに、

僕としてはこの解釈があっていてもあっていなくても、そう信じ続けていきます。

何故なら、僕らの愛するドラクエにはそうやって自分なりに解釈する自由が、それを自分なりに表現する自由があると思っているので!!

 

ドラクエサイコー!!