「いじめ」をなくすたった1つの方法
こんばんは
sho-ichiです。
教育に携わる者として
このことは少しでも多くの人に理解して欲しいと思う。
- 「いじめ」の心は無くならない
- 動物としての人間は元来「平等」ではない
- 感情機構は「安全」を求めて働いている
- 「怒り」や「不安」の正体は何か?
- たった1つの解決策は「環境」のコントロール
- 「精神の自由」を認め「権利の平等」を担保する
「いじめ」の心は無くならない
「いじめ」は絶対に良くない行為です。
社会や学校はそういった行為を許してはいけません。
しかし一方で、人間の心から「いじめ」の心は無くなりません。
「いじめ」の心とは何か、
それは例えば、自分とは異質な他者に対して感じる嫌悪感や、自分の地位を脅かす者を攻撃したいと思う衝動や、自らの権威を誇示するために弱者を虐げて見せたいと思う欲求などです。
これらはどれも道徳的には感心できる感情でありませんが、群れで生活する動物として進化してきた人間(ホモ・サピエンス)が生存のために進化させてきた感情機構に由来しているため、
善し悪しを問う余地はなく、どんなに綺麗ごとを並べたとしても、これらの感情が沸き起こること自体は本能的に避けられません。
動物としての人間は元来「平等」ではない
例えば猿の群れを想像してみてください。
猿の群れではボス猿を筆頭に、全ての猿に序列がついています。
そしてより高い地位の猿が基本的には食べ物や雌(繁殖権)を優先的に獲得します。
地位の低い猿は食べ物を横取りされたりもします。
しかし、そのような不平等な群れをなぜ猿は構築するのか?
それは秩序だった群れを作ることで、他の群れとの食べ物や縄張り争いを有利に進められるからです。優秀なボスが率いる群れに属していれば、たとえその群れの中での地位が比較的低いものだったとしても、生存に有利だからです。
人間は猿ではありません。
猿と違って理性を持ち、道徳的な判断をすることができます。
しかし、もちろん全く同じではありませんが、
たかだか数十万年で動物の遺伝子はそう大きくは変わりません。
チンパンジーとホモ・サピエンスの遺伝子の違いはたったの1%と言われています。
感情機構は「安全」を求めて働いている
「いじめ」の衝動を引き起こす感情は様々ありますが、
苛立ちなどの「怒り」や、相手への嫉妬や集団からの孤立に対する「不安」などがその根底に確認できるケースがあります。
「怒り」や「不安」などの感情は、
人類が進化の過程で獲得した機能で、基本的には外敵から身を守り「安全」を求めて生き残るために働いています。
外敵に襲われた時、「怒り」により攻撃的になり戦うことが可能になります。
また、「不安」により、外敵から逃れようとする行動が引き起こされます。
(「闘争逃走本能」と言います)
「怒り」や「不安」の攻撃対象が級友に向けられるべきではありませんが、
“「いじめ」は良くないことだからならぬ!”
と説教だけして、根本的な「怒り」や「不安」の解消に目を向けなければ、
腹を空かせたライオンがいる教室の中で
“コラ!授業中なんだから教室から出ちゃダメだぞ!”
とライオンのことを無視して授業を続けているに等しい。
「怒り」や「不安」の正体は何か?
これはケースバイケースだと思う。
「いじめ」の原因は多種多様だし、様々なことが複合的に絡み合う。
だから一概には絶対に言うことができない。
しかし、現状の日本の学校社会は根本的に子どもたちの心に言い表しようのない「不安」や「苛立ち」などの違和感を与えてしまう不具合を抱えている。
それは、「平等」という神話そのものである。
先に述べたように、実際には人間(ホモ・サピエンス)は群れの中での自分の立ち位置を確立しようとして序列をつけたがる。
いわゆる「スクールカースト」とか言われるものは事実必然的に生まれる。
しかし、学校社会はそれを認めてはくれない。
※後述するが認めなくて正解ではあるのだが
あくまでも「平等」が正しいとされ、
その神話を補強するために、実際の人間社会にはありえない「月齢が12か月差以内」の個体だけを集めた「学級」という、本能的に構築され得る群れとは全く異なる集団での生活を強要される。
そして月齢(年齢)を揃えられてしまっているために、実際にはむしろ差異が目立つ。
しかも「平等」であると教えられているはずなのに、「成績」という基準だけは、本能的実感とは必ずしも一致しないのに、オフィシャルな序列として権威が与えられている。
人間(ホモ・サピエンス)は、
知識においても経験においても確固たる実力のある、優秀な個体をボスとしてリスペクトしながらその群れの成員である恩恵にあずかりたい。そのボスは、他の群れのボスよりも腕力があるのかもしれないし、食べ物の在り処をよく知っているのかもしれないし、外敵から襲われた時の逃げ方に秀でているのかもしれない。
正直何かしら有利であれば、本来基準は何でも良い。
しかし、学校ではそもそも知識も経験も大して差の無い個体ばかりが、てんでバラバラの群れから集められる。「従って然るべき」年長者を敢えて配置してはくれない。
だから仕方なく、改めて自分達なりに距離感を図ったり、ちょっと挑発してみたりして、上下関係を把握して自分の立ち位置を形成する。「学級」という森の中で更に小さな群れの構築を試みるのである。
しかし、学校はそのアンオフィシャルな群れを許容してはくれない。あくまでも「学級」という単位を堅持しようとする。
しかし、本来異なる群れはあまり近くでは生活できない。
もはや哺乳類で考えなくてもわかる。
虫かごにバッタをたくさん入れ過ぎると共食いする。
たった1つの解決策は「環境」のコントロール
バッタに共食いさせまいとしたらどうしますか?
方法は2つ。
1つは、虫かごの中に間仕切りを設けて隣の個体と接触しないようにする。
2つは、もっと大きなカゴで飼う。
です。
少なくとも「共食いは良くないからダメだぞ!」と叱っても共食いは止められない。
僕が大事にすべきだと思っていることは、
2つ目の、もっと大きなカゴで飼うことです。
間仕切りも悪くないが、
窮屈で楽しくなさそうだし、下手したらストレスで生存も危ぶまれるかもしれない…
そう、
学校が「いじめ」を減少させたいのであれば、「学級」と言う閉じられた環境をもっと広げることを本気で考えなければならない。
もちろん物理的に教室を広くしろ!というのではない。
「学級」や「学年」或いは「学校」という閉じられた世界だけで教育活動をしていてはならぬのだ。
物理的な話ではないのだから、
今の学校でも出来るはずである。
「精神の自由」を認め「権利の平等」を担保する
最後は少し大きな話になる。
でもこれは、学校に限らず、現代の社会システムの安定を良い形で維持するなら、
唯一の方法だと考えているので、汎用性はあると思う。
「いじめ」は間違いなく悪いことです。
だから、学校や社会はそれを認めてはいけないし、僕も断固として反対です!
「いじめ」を肯定することは決してありません。
ただ、それは行為としての「いじめ」です。
僕は、
思い切って「いじめたい」とか、「嫌い」とか「キモい」とか、
そういう感情を持つことそのもの自体は許容すべきだと思っています。
なぜならそれはその個体にとっての本能的な危機回避信号なので、
感じてしまったことを感じてないと思わせることはほぼ不可能だからです。
そして、そういった関係になった個体同士を敢えて近づける必要はないと思います。
敢えて近づければ、力の弱い個体の方が犠牲になってしまいます。
最近ニュースにもなっていますが、強制的に握手させるなどの方法は真逆の行為です。
お互いに嫌悪感や苦手意識を持った個体同士は敢えて近づけなくて良い、という雰囲気作りが大事です。
そして、「嫌いな相手は嫌いでいい」という自由を保障した上で、学校の本分である教育の機会や、心身の安全などは、両者に平等に提供されるよう、その点は厳格に守らせる必要があります。
例えば、暴力や、教科書を隠すなどの行為としての「いじめ」に対しては厳しく対処して良いと思います。
しかし、そうすると「学級」の空気が悪くなると考える人もいるでしょう。また、先のとおり、力の弱い方が一方的に「学級」に居られなくなってしまう可能性が高いと思います。
だから、最終的には「学級」というくくりを無くしてしまえば良いと思うのです。
「キミたちは同じクラスの仲間だ!」みたいな価値観の共有とかも、敢えてしなくても良いのではないか…と思います。
例えば、大学生にも「いじめ」はありますが、かなり数が減ります。
それは、個人の成長もあるかもしれませんが、大部分は環境によるものだと思います。
時間ごとにそれぞれ異なる教室に異なる授業を受けに行く大学の場合、
それぞれの講義クラスの中でいじめが起こることはほとんどありません。
中学校や高校も、それでいい気がします…
「学級」に捉われない方が良いのです。
「学級」をスタンダードにするから、そこに居られない個体がマイノリティになってしまうのだと思います。
現代は国籍や価値観など、様々な面で社会の構成員の多様化が進んでいます。
そういった共生社会では、
個人の「どう感じるか」の自由や「どう行動するか」の自由は尊重され、
その一方で、「わざわざ気に入らない相手を傷つけに行く」ことに対しては
社会全体で力強く「NO」と言っていくという環境づくりが
一番大切だと、
思うんだけどな。