昭和男子の令和時代攻略法

幼少期は友達ゼロ人。だけどゼロから作品やイベント、そして組織を創ることかできるようになった昭和男子のマイライフ!

「いじめ」をなくすたった1つの方法

こんばんは

sho-ichiです。

 

教育に携わる者として

このことは少しでも多くの人に理解して欲しいと思う。

 

 

「いじめ」の心は無くならない

「いじめ」は絶対に良くない行為です。

社会や学校はそういった行為を許してはいけません。

 

しかし一方で、人間の心から「いじめ」の心は無くなりません。

 

「いじめ」の心とは何か、

それは例えば、自分とは異質な他者に対して感じる嫌悪感や、自分の地位を脅かす者を攻撃したいと思う衝動や、自らの権威を誇示するために弱者を虐げて見せたいと思う欲求などです。

 

これらはどれも道徳的には感心できる感情でありませんが、群れで生活する動物として進化してきた人間(ホモ・サピエンス)が生存のために進化させてきた感情機構に由来しているため、

善し悪しを問う余地はなく、どんなに綺麗ごとを並べたとしても、これらの感情が沸き起こること自体は本能的に避けられません。

 

 

動物としての人間は元来「平等」ではない

例えば猿の群れを想像してみてください。

猿の群れではボス猿を筆頭に、全ての猿に序列がついています。

そしてより高い地位の猿が基本的には食べ物や雌(繁殖権)を優先的に獲得します。

地位の低い猿は食べ物を横取りされたりもします。

 

しかし、そのような不平等な群れをなぜ猿は構築するのか?

それは秩序だった群れを作ることで、他の群れとの食べ物や縄張り争いを有利に進められるからです。優秀なボスが率いる群れに属していれば、たとえその群れの中での地位が比較的低いものだったとしても、生存に有利だからです。

 

人間は猿ではありません。

猿と違って理性を持ち、道徳的な判断をすることができます。

 

しかし、もちろん全く同じではありませんが、

たかだか数十万年で動物の遺伝子はそう大きくは変わりません。

チンパンジーホモ・サピエンスの遺伝子の違いはたったの1%と言われています。

 

 

感情機構は「安全」を求めて働いている

「いじめ」の衝動を引き起こす感情は様々ありますが、

苛立ちなどの「怒り」や、相手への嫉妬や集団からの孤立に対する「不安」などがその根底に確認できるケースがあります。

 

「怒り」や「不安」などの感情は、

人類が進化の過程で獲得した機能で、基本的には外敵から身を守り「安全」を求めて生き残るために働いています。

外敵に襲われた時、「怒り」により攻撃的になり戦うことが可能になります。

また、「不安」により、外敵から逃れようとする行動が引き起こされます。

(「闘争逃走本能」と言います)

 

「怒り」や「不安」の攻撃対象が級友に向けられるべきではありませんが、

“「いじめ」は良くないことだからならぬ!”

と説教だけして、根本的な「怒り」や「不安」の解消に目を向けなければ、

 

腹を空かせたライオンがいる教室の中で

“コラ!授業中なんだから教室から出ちゃダメだぞ!”

とライオンのことを無視して授業を続けているに等しい。

 

 

「怒り」や「不安」の正体は何か?

これはケースバイケースだと思う。

「いじめ」の原因は多種多様だし、様々なことが複合的に絡み合う。

だから一概には絶対に言うことができない。

 

しかし、現状の日本の学校社会は根本的に子どもたちの心に言い表しようのない「不安」や「苛立ち」などの違和感を与えてしまう不具合を抱えている。

 

それは、「平等」という神話そのものである。

 

先に述べたように、実際には人間(ホモ・サピエンス)は群れの中での自分の立ち位置を確立しようとして序列をつけたがる。

いわゆる「スクールカースト」とか言われるものは事実必然的に生まれる。

 

しかし、学校社会はそれを認めてはくれない。

※後述するが認めなくて正解ではあるのだが

 

あくまでも「平等」が正しいとされ、

その神話を補強するために、実際の人間社会にはありえない「月齢が12か月差以内」の個体だけを集めた「学級」という、本能的に構築され得る群れとは全く異なる集団での生活を強要される。

 

そして月齢(年齢)を揃えられてしまっているために、実際にはむしろ差異が目立つ。

しかも「平等」であると教えられているはずなのに、「成績」という基準だけは、本能的実感とは必ずしも一致しないのに、オフィシャルな序列として権威が与えられている。

 

人間(ホモ・サピエンス)は、

知識においても経験においても確固たる実力のある、優秀な個体をボスとしてリスペクトしながらその群れの成員である恩恵にあずかりたい。そのボスは、他の群れのボスよりも腕力があるのかもしれないし、食べ物の在り処をよく知っているのかもしれないし、外敵から襲われた時の逃げ方に秀でているのかもしれない。

正直何かしら有利であれば、本来基準は何でも良い。

 

しかし、学校ではそもそも知識も経験も大して差の無い個体ばかりが、てんでバラバラの群れから集められる。「従って然るべき」年長者を敢えて配置してはくれない。

だから仕方なく、改めて自分達なりに距離感を図ったり、ちょっと挑発してみたりして、上下関係を把握して自分の立ち位置を形成する。「学級」という森の中で更に小さな群れの構築を試みるのである。

しかし、学校はそのアンオフィシャルな群れを許容してはくれない。あくまでも「学級」という単位を堅持しようとする。

 

しかし、本来異なる群れはあまり近くでは生活できない。

もはや哺乳類で考えなくてもわかる。

 

虫かごにバッタをたくさん入れ過ぎると共食いする。

 

 

たった1つの解決策は「環境」のコントロール 

バッタに共食いさせまいとしたらどうしますか?

方法は2つ。

1つは、虫かごの中に間仕切りを設けて隣の個体と接触しないようにする。

2つは、もっと大きなカゴで飼う。

 

です。

少なくとも「共食いは良くないからダメだぞ!」と叱っても共食いは止められない。

 

僕が大事にすべきだと思っていることは、

2つ目の、もっと大きなカゴで飼うことです。

 

間仕切りも悪くないが、

窮屈で楽しくなさそうだし、下手したらストレスで生存も危ぶまれるかもしれない…

 

そう、

学校が「いじめ」を減少させたいのであれば、「学級」と言う閉じられた環境をもっと広げることを本気で考えなければならない。

 

もちろん物理的に教室を広くしろ!というのではない。

「学級」や「学年」或いは「学校」という閉じられた世界だけで教育活動をしていてはならぬのだ。

 

物理的な話ではないのだから、

今の学校でも出来るはずである。

 

 

「精神の自由」を認め「権利の平等」を担保する

最後は少し大きな話になる。

でもこれは、学校に限らず、現代の社会システムの安定を良い形で維持するなら、

唯一の方法だと考えているので、汎用性はあると思う。

 

「いじめ」は間違いなく悪いことです。

だから、学校や社会はそれを認めてはいけないし、僕も断固として反対です!

「いじめ」を肯定することは決してありません。

 

ただ、それは行為としての「いじめ」です。

 

僕は、

思い切って「いじめたい」とか、「嫌い」とか「キモい」とか、

そういう感情を持つことそのもの自体は許容すべきだと思っています。

なぜならそれはその個体にとっての本能的な危機回避信号なので、

感じてしまったことを感じてないと思わせることはほぼ不可能だからです。

 

そして、そういった関係になった個体同士を敢えて近づける必要はないと思います。

敢えて近づければ、力の弱い個体の方が犠牲になってしまいます。

最近ニュースにもなっていますが、強制的に握手させるなどの方法は真逆の行為です。

 

お互いに嫌悪感や苦手意識を持った個体同士は敢えて近づけなくて良い、という雰囲気作りが大事です。

そして、「嫌いな相手は嫌いでいい」という自由を保障した上で、学校の本分である教育の機会や、心身の安全などは、両者に平等に提供されるよう、その点は厳格に守らせる必要があります。

例えば、暴力や、教科書を隠すなどの行為としての「いじめ」に対しては厳しく対処して良いと思います。

 

しかし、そうすると「学級」の空気が悪くなると考える人もいるでしょう。また、先のとおり、力の弱い方が一方的に「学級」に居られなくなってしまう可能性が高いと思います。

 

だから、最終的には「学級」というくくりを無くしてしまえば良いと思うのです。

「キミたちは同じクラスの仲間だ!」みたいな価値観の共有とかも、敢えてしなくても良いのではないか…と思います。

 

例えば、大学生にも「いじめ」はありますが、かなり数が減ります。

それは、個人の成長もあるかもしれませんが、大部分は環境によるものだと思います。

時間ごとにそれぞれ異なる教室に異なる授業を受けに行く大学の場合、

それぞれの講義クラスの中でいじめが起こることはほとんどありません。

 

中学校や高校も、それでいい気がします…

 

「学級」に捉われない方が良いのです。

「学級」をスタンダードにするから、そこに居られない個体がマイノリティになってしまうのだと思います。

 

 

現代は国籍や価値観など、様々な面で社会の構成員の多様化が進んでいます。

そういった共生社会では、

個人の「どう感じるか」の自由や「どう行動するか」の自由は尊重され、

その一方で、「わざわざ気に入らない相手を傷つけに行く」ことに対しては

社会全体で力強く「NO」と言っていくという環境づくりが

一番大切だと、

 

思うんだけどな。

 

組織マネジメントについて 〜評価制度編〜

sho-ichです。

一昨日ようやく電気が復旧しました(^^)

たった2日間でしたが、日常の有り難み、尊さを実感しました。

 

しかし、昨晩はまだ断水や停電が続く地域に住む親せきが我が家に避難しに来ました。

今なお避難生活や復旧活動の最中にいらっしゃる方々の安全を祈願しております。

 

さて、とは言え、自分自身の生活は通常運転に戻ったので、

サクッと仕事論について紹介したいと思います。組織マネジメントについてです。

 

 

 

人事は組織を成長させるために行う

さて、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。これは、人間がやれるだけのことをやったら、あとは天に任せよ、すなわち、やれるだけのことをやったらあとは信じて待つしかない、という意味ですね。

 

会社組織をマネジメントしている人にとっては、まさに人事(ことわざの意味とは違いますがw)、すなわち人をどう配置するか、人をどう育てるか、に力を尽くし、

あとはその人自身の頑張りを信じて任せるしかないですよね。

 

その時、どんなことを狙いとして人事判断をすべきか。それは、会社の成果がより良くなることを目指すべきです。

 

もちろん、部下個人の成長や、会社としてのコンプライアンスが行き届くように…

とか様々なベクトルがありますが、最終的にはそれらの結果が業績アップであったり、会社の成長に収斂されなければ意味がありません。

 

 

どのような評価が組織全体の力を高めるのか

 さて、今回は具体的な例を挙げます。

例えば皆さんが組織をマネジメントする立場にある場合(社長じゃなくても部下を持っていたりする場合)以下のような部下をどのように評価しますか?

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①やる気があって出来る人
②やる気はないけど出来る人
③やる気はあるけど出来ない人
④やる気はないけど出来る人

 

②③どちらを評価すべきかって難しいと思いません?

 

ちなみに、価値観や目的が明確な組織だったら、僕は①③を大事にします。
ってゆーか、自分で作る組織はそうしたいです。

 

しかし!!

ある程度規模が大きく多様性のある組織では、

必ずしもそれがうまくいくとは限りません!

 

 

人が育つ組織作りが大切!!

実は、②を積極的に評価することが大切です。

 

①だけとか、或いは①と③を積極的に評価しようとすると、④の部下が育たなくなります。

また、②のモチベーションも上がらず、必要以上の成果を上げようとはしなくなります。

 

②を評価することで、③や④に対して、「どう頑張ればいいのか?」を示すことができます。④にとっては、①や③のように高い意識を持っていなくても、きちんと評価されるということが、仕事に向かう気持ちを高めてくれます。

 

マネジメントする立場になると、どうしても

自分の考え方ややり方

も含めて、部下に共有して仕事に向き合ってほしいと考えてしまいます。

 

しかし、

会社組織ですから、きちんと成果さえ出していれば、価値観まで強要しない、という寛容さを持つことも大切です。

また、そういった層の部下も含めてより仕事の成果が出るように、全構成員が成長するかしないか、という視点を持つことも忘れないようにしたいですね(^^)

 

 

ただの台風の話

お早うございます。

sho-ichiです。

 

夜中から台風が来ました。

家って風だけであんなに揺れるんですね。

 

明るくなって見ると家の前の桜の木が道路に倒れてました。

 

今もなお停電もしています。

 

とりあえず冷凍庫のものと、冷蔵庫の生物(なまもの)を釣り用のクーラーボックスに詰め込みました。

 

息子は学校が休みになって喜んでいますが、停電してるのでWi-Fiが繋がらないことには憤慨しています。

 

僕は風も落ち着いたので、出勤するため、

お湯が出ないので冷たいシャワーを浴びて出てきました。

 

一番驚いたのは、

トイレの中にチリが積もっていたこと。

 

恐らく外からの強風で換気扇のプロペラが逆回転させられて、中に降り注いだものと思われます。

 

外に出てみると、多くの人が普通に歩いています。辺りが木の葉や枝でぐちゃぐちゃにはなってますが、なんらいつもの日常と変わらないです。

 

規模も深刻さも全然違うけど、

例えば戦争が起きたり、隕石が落ちたり、宇宙人が攻めてきたとしても、

もちろん危機的な悲惨な状況かもしれないけど、

 

きっと人間の心の中にある日常ってものは、その景色の中になんとか収まって、

どんな時でも変わらずに人間らしく生きようとしていくんじゃないだろうか、

と、なんとなく思いました。

 

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人の心の操縦法

どーも。

sho-ichiです。

 

さて、

タイトルには似つかわしくない真面目な話からスタートしますが、通信制とは言え僕も教育者のはしくれ…

人を育てる時の、僕なりの大原則を紹介します。

 

学校で働く人だけでなく、子育てをするお父さんお母さん、部下を育てる先輩や上司の方の課題にも通じる本質的な人心掌握術に…

つながるかな??

 

ご参考になさってください(^^)

 

 

リスペクトは自ら買う時代

いつも言ってますが、良いか悪いかは別にして年功序列は崩れ、実力主義の時代が既に訪れています。

 

(弱肉強食でいいとは思ってなくて、だからこそ他者への共感や配慮、寛容性、社会システムでいうと福祉が重要なわけですが、それは今回は置いておいて…)

 

学校でも会社でも「先生だから」とか「上司だから」という理由で、無条件に敬われる時代ではとっくにありません。

 

だからと言って組織である以上、上下関係を作ることは有効です。それによって組織はより機能するからです。

ですから今回の主張は、上下関係をなるべく平らにしてコミュニケーションをとりながら関係づくりをしていきましょうという趣旨ではないところで語ります。(そのやり方もアリだけどね)

 

今、組織において先生や上司は、

自分が先生たる、上司たる実力をきちんと示すことによって、リスペクトを買うところから始めるべき時代なのです。

 

そこを考えずに

「最近の若いヤツは礼儀がなっとらん」とか、無条件に敬われるはずと思い込んでいると、そりゃぁ、現代のシビアな人間関係の世界を実際にサバイブしている若者からは「こいつは時代遅れだ、ついてく価値無し」と早々に見限られるわけです。

 

 

実力の示し方を間違うとパワハラ教師/上司

流石に今の時代、ビジネスパーソンではそんな上司めったに遭遇できませんが、

時代のガラパゴス諸島-学校には、「生徒に舐められまい」と言わんばかりに、暴力こそ振るわないものの、怒鳴ったり脅したりして、不正を正そうとか、言いなりにさせようとする教師、まだ居ますね。

残念ながら。

 

ま、そのお陰でウチ(通信制)に流れてくるのでありがたいですけどw(冗談ですよ💦)

 

僕は大学の協力研究員としていわゆる心理学の領域の研究にも少しだけ携わっているんですが、心理学では、「心」の理解をする時に、人間の「行動」の観察に重点を置くことがあります。また、その時の本人の「考え」すなわち主観も観察の対象にしますが、そうすることによって人の「心」の理解をしていきます。

 

ところで、怒っている教師、または上司の目的は生徒や部下の行動(様式)の変容ですよね?

しかし、怒るとアドレナリンが出て気持ちよくなっちゃうので、怒ってるうちに怒りたくて怒ってるだけになっちゃってる愚かな方も、

人間なんでしょうがないとは思いますが…いますよね…

 

本来であれば、目的に達するために、その怒りを向けた結果、相手にどんな考えや感情など心の状態をもたらし、その先にどんな行動が起きるかを冷静に考えることが肝要です。

 

もし仮に怒って、相手が反発したり、或いは落ち込んだりして、結局適応的な行動に誘導できなかったら、

自分のアドレナリン放出して気持ちよくなって、ハイおしまい…

 

相手には微塵も成果を与えてないわけで、

そりゃぁパワハラって言われますわね…(⌒-⌒; )

 

 

人間も動物

僕が常々意識していることは、人間も動物だと言うことです。本能には逆らえません。

 

動物は生存するために、負の刺激を避け、正の刺激に近づく性質があります。怖かったら逃げるし、美味しそうだったら近づいて食べようとするわけです。

 

よく言われることですが、人を思った通りに誘導したい…と思ったら、魚釣りをイメージして下さい。

 

もし相手に、餌に食いついて欲しいと思った時、

「なんで食わねぇんだ!!」と怒って石なんか投げ込んだら魚釣れますか?

近寄ってこないですよねw

怒ることで相手に望ましい行動を迫ろうというやり方は、このくらい愚かな方法だと思い出すと良いです。

 

本当に相手を釣り上げて、美味しく料理し、活かしてあげたいのであれば、

撒き餌を撒くなり、餌を変えるなり(疑似餌でもいいですよ)、釣り場や時間(環境)を変えるなりして、釣り上げたい相手の特性をよく理解し、自ら寄ってくるように仕向けることがまずは大切なのです。

 

ちなみに余談ですが、

なぜ以前はチカラで迫ることに一定の効果があったかというと、

かつては学校や会社というものがかなり個人にとって絶対的なコミュニティでした。そこに居場所を失うことは社会との断絶にも等しかったので、逃げるという選択肢が無かったわけですね。

ま、魚の例えを続けるならば追い込み漁みたいなもんだったわけですね。

 

 

相手の土俵で上回ってみせる

さて、では本題です。

どうすれば相手のリスペクトを買うことができるのか。それができなければ、相手は警戒して自分の言葉など腹の中まで飲み込まず、テキトーについばまれて餌だけ食われて釣り上げることはできません!

 

まずはよくあるマチガイを2つ紹介します。

 

マチガイ① 意味の無い分野で勝負を試みる

ある意味その最たるものが既に紹介したチカラで圧倒しようというものですが、生徒や部下に自分の実力を知らしめようと、自分の得意分野で見せつけようとする人がいます。

いわゆる武勇伝みたいものとかですね。

 

もちろん中にはその武勇伝が響く相手もいると思いますので、何も無いよりは、自分の得意分野があることは大切です!

 

だけど、魚を釣りたいのに、針の先に飴玉くっつけても何も釣れませんよね。

 

例えば、勉強の苦手な不良生徒にいかに自分の学力が高いかを示すとか、

すごーく内気で運動が苦手なコに、インターハイまで上り詰めた自分の成功体験を語って「だから頑張ろう!」みたいなのとか、

「俺が若い頃はバブルでなぁ!」と言って根性論展開してくる、

みたいなヤツで、あんま響くわけないですよねw

(でも後者2つの例は結構やっちゃう人多いですよね…なんなんだろ…w)

 

マチガイ② 機嫌取りの先が無い

これは要するに撒き餌だけさんざん撒いてたくさん魚寄ってくるんだけど、全く釣れないってヤツですね。

ビジネスの世界で上役に抜きん出る方にはさすがにあんまりいないと思いますが、

新卒採用でも「先生」になってしまう学校にはやっぱり起きがちですよね。特に若い人に多いかな。

 

説明するまでもないですが、

要するに、生徒に対して共感的で理解を示すことができるわけです。だから、生徒も寄ってきます。

だけど、いざ生徒の課題に直面したり、反発にあった時に適切な対応が取れないと、結局信頼は獲得できないわけですね。

 

まぁ、警戒心を解くところまでいけている分、個人的には①よりは全然いいと思っています。チャンスはあるし、あとは自分のスキルを磨くだけですからね。

 

ただですね、学校にはさっき言ったように、石を投げつけて正そうとする輩も生存しているわけで、共感力のあるこの先生のやり方が生ぬるいと感じて、

善かれと思って、「釣竿を貸せ!」と、水面を掻き回したりするんですよね。そうすると、もう、収拾がつきませんw

 

さて、ではどうすべきなのか

それは、行動変容を期待する相手の土俵に乗っかって、その上で自分の実力をきちんと見せることです。

 

ここはどうしても個々のケースによって異なると思うので抽象的な表現になりますが、

生徒なり部下なり、その相手が納得し、受け入れている価値観の中で、自分のスタンスを明示し、その優位性を示すことが大事です。

先にも書きましたが、共感も大前提として必要ですね。

「お前の言っていること、わかるよ」ってスタンスをとることが大事です。

 

ここまではまぁ、知識として頭で理解している人も多いのでやれるんですが、

「わかるよ」の後に「だけど…」から始める人が多いんですよね。結構。

それはもったいない…

本当は、「わかるよ」の後に「だからこそ…」として、

行動の変容を促すべきなんです。

相手のロジックに乗っかって、その上で、正解にこぎつけるテクニックと言うか、柔軟な考え方が大事です。

 

 

特に、教師や上司として気にかかる対象と言うのは、

既存の様式に何らかの困り感を抱えていることの方が多いと思います。

「できないから自信を無くしてる」とか「できないから反発してる」とか。

 

そういう相手に

「だけど、そういうルールだから」として相手に修正を迫っても、

相手の本当の課題には届かないわけです。

 

相手の課題に正面から向き合い、

それにきちんと応えていく、そのこと自体が、相手の信頼を得、リスペクトを買うことにもつながるのです。

丸腰で相手の土俵に自ら上がっていく姿勢を見せるだけでも充分、ということもあるのです。なにも、「自分の方がすごい」と見せようと気張る必要さえ、

本当は無いと思います。

 

結論はシンプルですが、

誠実性が、相手の信頼を得る上では最も大切です。

相手の立場が仕事上、下であっても真摯に向き合う姿勢が、基本的なことですが最も求められています。

 

 

 

 

 

令和時代の働き方 ~「働き方改革」続編~

どうも

sho-ichiです。

 

以前「働き方改革」について書きました。

newedu.hateblo.jp

 

働き方改革」という時に「時間」の削減ばかりが取りざたされていますが、

 

じゃぁそれをどうやったらいいのか?

 

すなわち最小限の労力(「時間」を含め)でいかにきちんと成果を出すか、それを実現するための仕事のやり方(働き方)を考える、普及させる、

そのことこそが働き方の改革なんじゃないの?

 

って話です。

 

 

そんなわけで、

既にとっくに、普通にデキるビジネスパーソンにとっては当たり前のことなんですが、

改めてどんな働き方をすべきなのか、整理してみました!

 

わかっている方は確認程度に、

出来ていないなーと思う方は、大概それはあなたのせいではなく、組織の環境に起因している場合が多いので、どんな環境改善が必要か、

考えるキッカケになれば幸いです!

 

 

①自分の仕事の目的(ミッション)を明確にする。

 至極当たり前のことなのですが、会社という組織に守られていると、「そもそも自分の仕事って何のためにやってるんだっけ?」と分からなくなることがあります。

 いや、そのように「アレ?」と思う人はまだチャンスがあります。中には「上司に言われたことをこなしてればいいのに目的なんて考え過ぎだよ」とか「給料もらうために働いてるんだよ」なんて視野の狭いことを平気でいう人がいるのも事実です。
 そういう方は令和時代にはもう通用しないので覚悟しておいた方が良いと思います。


 私の場合、前職では営業だったので当然ながら「利益を出すこと」が目的でした。通信制高校で働く今も、自分が運営責任者を任されている拠点の「生徒確保=(増収)」を目的に置いています。

   もちろん、教育なので(顧客である)生徒や保護者に提供するサービスの内容は顧客視点であるべきですが、組織の中で私に任されている目的=ミッションは、その教育サービスを恒常的に提供するための、組織体を維持すること、すなわち、収入をきっちり確保することにおいています。

 

②目的を達成するための方針と手段を整理する。

 これもごく基本的なことですが、目的を実現するには多様な手段があります。
 最終目標は目的の達成です。その道筋は本来人道やコンプライアンスに反しない限りどうだって良いじゃん、というのが私の仕事における持論です。
 しかし、これは本当によくありがちですが、先輩や上司は「自分のやり方」を勧めてきがちです。そして、自信の無い人ほど「自分のやり方」に自信が持てず、先輩や上司の言う通りにやってしまいがちです。
 そうすれば失敗しても「言われたとおりにやったんですが…」と言い訳できますからね。
 でもやっぱりこれは合理的ではありません。


 営業時代、中には「あのお客さんは野球好きのだから野球の結果くらい押さえていった方がいいぞ」とアドバイスしてくれる先輩もいましたが、私にとってそれは大変非効率的なものでした。そこで私は、目的は案件を受注すること、そのために必要なのは信頼関係、信頼関係を築くのに「共通の話題」は確かに心理学的にも有効だけど浅はかな会話で逆に信頼を損なうリスクを取る意味はない、と判断して信頼関係を築く手段として「かわいがってもらう作戦」を取りました。とにかく依頼は断らない。(最終的に断ることを決めていても、一旦持ち帰って検討して(るフリをして)から断る。)そして、とにかく早いレスポンスを心がけていました。

 

   整理すると

①案件を受注して利益を出すことが目的

②-1 そのために顧客との信頼関係構築を最優先にする方針を立てました。

②-2 信頼関係構築の手段として、僕は「従順」、「即レス」を徹底しました。

 

②-2 はもちろんこれだけではありません。野球の話こそしませんでしたが、家族の話や趣味の話など、プライベートな領域で共感を示すことは当然やりました。

それは②-1に適うからですね。

 

何が言いたいかと言うと、仕事の時間を削減するには無駄なことをしないことが大切です。目的だけでなく、方針と手段を明確にしておくことで、「判断力」が上がり、余計なことを省けるようになるのです。

 

ちなみに、

通信制高校での今の業務においても方針はあまり変えてません。信頼関係を構築する、というところですね。学校の場合生徒から追加受注とかは無いので、顧客との信頼関係の深掘りで直接の売り上げは増えないのですが、ここで聞いてくるのが口コミです。

ネットでなんでも調べられる時代だからこそ、友人同士、保護者同士の口コミによる信頼度の伝播は強力です。

なお、手段はもちろん違います。生徒に「従順」でもしょうがないですからね(⌒-⌒; )

今は生徒も保護者もですが「傾聴」を中心とした「承認欲求を満たす」という手段を用いてます。この辺の心理テクニックはまたの機会にいつか紹介するかも。

 

③期限を決めて計画的に仕事をする 

最後に、これも至極当たり前のことですが…

意外とやっていない、やっているつもりができていない、そんなことって結構あると思います。

 

残業しないで帰りましょう。

 

と言われた時に、とりあえず手元にある仕事を順番にやっていって、結局間に合わず、

「仕事が多すぎる…ブラック企業だ…」

なんて言ってる人…

まさかいないですよね????

 

残業しない=今日の仕事の期限は〇時〇〇分と決まる、という話です。

 

まず最初にやるのは、

そのための計画です。

 

ゴールが定まってるわけですから、そのためのプランを考えずに走り始めては行けません。

地図を見て、ルートを考えて、寄り道せずに最短で行ける方法を考えます。

 

その時に効いてくるのが、①や②です。

自分の目的に適わないことは、やらないとか、最小限でやる、など判断をします。

 

その次に大切なことは、

優先順位を決めることです。

・やらなくていいことはやらない、

の次は、

・急がなくていいことは急がない

ですね。

 

ここは、実は工夫というか、少し考える必要があります。

 

多くの人は

期限の迫っている仕事を優先的に行います、期限が先の仕事を明日以降に回すでしょう。

 

基本はそれでオッケーですが、

デキるビジネスパーソンは応用編を修得しています。

 

客観的な期限と併せて考慮すべきが、

その「効果量」です。

 

例えば、社内の人間同士のやりとりで決まっている期限があるとします。これは守って当然の仕事です。

一方、新規の取引先から、明後日を期限とした提案書もお願いされているとします。

 

このとき、今日社内期限を優先し、明後日までに提案資料を提出した場合の「信頼関係」の強化度をどちらも±0だとします。

 

さて、もし仮に

今日新規顧客に提案書を一次提出して、「ここの部分はどう思われますか?ご意見にあわせて再検討し、明後日までに最終版を提出します」と提案することで、信頼度が増すとしたらどうでしょうか?

また、社内期限は、「すみません、1日待ってもらえませんか?」と言えば信頼度を損なわずリスケジュールできるとしたら?

 

そうすると、短期的に見れば、新規顧客に今日までに資料を提出し、明日社内期限の仕事もあり、新規顧客には返信の内容をフィードバックした資料をもう1回編集して明後日提出しなければいけなくなるわけですから、仕事量は増えます。

 

しかし、もし仮に新規顧客に対してこのやりとりをしたことによって信頼関係と提案書の質が向上し、案件が受注できるとしたらどうでしょうか?逆にしなかったときに提案が通らなかったものとしたら…

そもそも利益も得られないし、提案書をつくった労力が無駄ですよね…?

また、ただ案件を受注するだけでなく、信頼関係を構築しておいたお陰で、その後トラブルが起きた時にスムーズにクリアできるとしたら、そこでも時間の削減ができます。

 

と言うように、

短期的、かつ客観的な「期限」に捉われずに、

常に目的や方針に沿った「効果量」まで予測して計画を立てることが重要です。

 

「たら」「れば」の話が多かったかもしれませんが、

業務の取捨選択をし、効率的に行うためには、

仮説を立て、シミュレーションをするということそのものが絶対に不可欠です。

「たら」「れば」を突き詰めて考えないほうが、非効率的とも言えます。

そういった仮説を立て、③計画していくときにも、

①目的や②方針・手段をあらかじめ決めておくことがとても重要なのです。

「NHKをぶっ壊す」と日本国民の生活もぶっ壊れる?

どうもsho-ichiです。

 

さて、今回は一斉を風靡したキラーワード「NHKをぶっ壊す」について感じた自分なりの違和感についてお話しします。

 

予め断っておくと、

僕はスクランブル放送を主張することは悪いことだと思ってないですし、

また、立花さんのプレゼンは、

キャッチーなコンセプトを用いてユーモアにも溢れており、主張も自身の経験に基づいた明快なもので、国政選挙の舞台であのスタンスを貫き通ししっかり自己主張をし、キッチリ結果まで出すという点において、リスペクトさえ感じています。

 

ただ、「公共放送のスクランブル化」という主張で国会議員になれた、という現実に若干の違和感というか危機感を感じたことも事実なので、そのロジックを紹介させていただきます。

 

 

国会議員とは何か

 当たり前のことですが、国会は日本唯一の立法機関で、法律を作ったり予算を議決したりするのが仕事です。

 

実際に政治を担うのは役所などに勤める行政マンですが、国の方針を決め、ルールを定め、国家を良くするためのお金の使い道を決める国権の最高機関です。

 

さて、では国家を良くするとはどういうことでしょうか?

 

これは一般論ですが、現代では多くの先進諸国が、国民の文化的な生活の安定を目指し、社会保障の充実した福祉国家を目指しています。

国民の基本的人権が尊重される社会です。僕は生まれた時からとっくに民主主義の定着した社会で生きてきたので、それが実現される「良い国」で暮らしたいなと思います。

 

繰り返しになりますが、国会が行うことは法律を作ることと予算の配分です。福祉国家では、税金として国民から集めた富を、全ての国民が文化的な生活を送れるよう再分配することが大切な仕事の一つです。

 

公共放送とは何か

さて、今度はNHKのことを考えてみます。NHKは国営放送ではありませんし、民営化されていますが、公共放送としての役割を担っています。

 

一民間企業が公的な役割を独占していていいのか?などの意見をお持ちの方もいると思いますが、現状ではそういうことになっているはずなので、そこは前提として進めます。

 

例えば、災害時の情報発信や、それこそ選挙に関する放送など、国民にとって必要な情報の発信を行なっています。また、教育テレビ(Eテレ)などを通して、国民の教養を高めたり、学術的な研究や調査に協力したり、広い意味で国家全体の安全・安心や文化の発展に寄与しようという活動を行なっています。(ここも「そもそもそんな活動必要ない」とか「無駄なつまらない番組ばかりやっている」とか、実際のコンテンツに対する批判は今回は考えないものとします。)

 

あくまでもNHK=公共放送=国民全体の利益に寄与する事業を行なっている

という前提が正しいと仮定します。

(しかしどうしても現状のコンテンツに対しての不満が気になる場合は、「中身の改善は必要だとしても公共放送という者そのものは社会にあるべきだ」ということを前提にします。)

 

「自分の分だけ払えばいい」のか

さて。現代は民主主義×資本主義が発展し、自由主義的、個人主義的な考え方が定着、そして「個人の自由」は最も尊重されるべき事柄のひとつになっていると思います。

 

もちろん僕も「個人の自由」が尊重されることを最も重視しているし、それを侵害されることが一番嫌いです。

初回のブログに書いた通り「みんな同じ」ように強制されることが嫌いで、敢えて通信制高校というフィールドで個性や自由を重視した教育活動をしてるくらいですから。

newedu.hateblo.jp

  

しかし、「個人の自由」は公共の福祉に反しない範囲で最重要視されるものです。現代では「最強」となった「個人の自由」も、「公共の福祉」よりは優先されるべきでないはずなのですが、資本主義社会では経済活動の原理が最も身近となるため、政治において最も重視されるべき「公共の福祉」について、一般の国民にとっては身近な問題として認識しづらい状況にあります。

 

極端な例を挙げます。

例えば現代は少子高齢化が進み、将来は年金制度が崩壊するかもしれない、支払った分が戻ってこないかもしれない、と言われています。

 

そういったことから、年金を払っても損するから払わずに貯金しよう、と国民みんなが言い始めたらどうなるでしょう?

 

当然予定よりも早期に年金制度が崩壊します。現時点で年金を受給している方にも年金の支払いがストップするかもしれません。もしかする税収が激減して医療保障制度も解体するかもしれません。

しかし、その家族は見殺しにできませんから、自分の年金は支払わなくていいかもしれませんが、親や親族のために仕送りをするかもしれません。

その資金が無い場合はその時点でゲームオーバーかもしれません。もしあったとしても、高額な医療費が必要な病気にかかってしまったら大きな借金を抱えてしまうかもしれません。退職金をアテに仕事を退職したものの、その後の再就職先が見つからないまま、税収不足のため失業保険さえ出なければ、本人もここでゲームオーバーです。

 

そんな国では国民が安心して生きてはいけないので、資本主義社会のもとではある程度資本の差は生じてしまうけれども、少なくとも国民全体が文化的な最低限度の生活は送れるようにするのが、政治の役割であるはずです。

  

国会議員には国民全体の利益を優先する人が選ばれて欲しい

 あくまでもスクランブル放送を主張することは悪いこととは思いません。きちんと議論されて、決まれば正直どっちでもいいと思います。

 

ただ、「必要な人だけ払えばいい」と言って、その支払いをしない人が増えて、NHKの資金調達が立ち行かなくなって、地方のNHK支局が無くなって、その地域の人たちの情報レベルが下がったり、万が一災害が起きた時の情報が入らなくなったりしたらどうなるんだろうか?

という想像力が持てない人よりは、そういった自分とは立場の違う人への配慮ができる人に、僕は国政に携わって欲しいなと思います。

 

そういった意味で、

公共放送なのに、見たい人だけお金を払えば良いというロジックの主張で政治家になれる、ということが、(あとは有権者がそういった観点で選ぶということも)なんとなく腑に落ちなかったわけです。

 

他にも郵便局なんかも地方は赤字拠点が多かったりします。公共交通機関とかもそうですよね。でも、使いたい人だけでお金を負担すればいいなんて言われたら、地方は立ち行かなくなります。

市場原理が通用するのは、あくまでも市場が豊かな場合に限ります。政治家、ましてや国会議員ともなれば、そういった視点を持っているということが確認できないと、心配だなぁと思いました。

 

※個人的に郵政などの民営化は反対なわけではありません。学校という職場で働くようになって(私立なので厳密には違うけど)改めて確信しましたけど、お役所仕事っていうのは本当に効率が悪い!!それはまたいつか書きましょうw

 

余談

 ちなみに、スクランブル放送が本格的に実現したら実際どうなるんでしょうね?

支払う人の絶対数が減って、支払う人は負担が増えるのかな?

でももし仮に値上げしてもそのせいで更に加入者減ったら結局減収になる可能性もありますよね。

でも、公共放送だし、減収になったらなったで、税金とか投入されて維持されると思うんですよね。そうなると、今はまだ「俺は払わん!」とか言えるけど、税金回されたらもうそういう主張すらできなくなって「払わない権利」さえ無くなっちゃうのでは…?

 

と思うので、むしろNHK見ないから払ってない人の方が損するよねw

 

 

ってゆーか。

NHKの収入ってほとんど大半が受信料なんですよ。ってことは、当たり前だけどスタジオの建設費とか、もっと当たり前だけど放送するためには番組収録したりカメラとか機材買ったり、職員の給料とかも、もちろん受信料からまかなわれてるわけですよね。

 

「見てないから払わなくていいんですよ!」

って言いながら

受信料払ってる人たちのお金が投入されて作られているNHK政見放送出んなよw

 

筋が通ってねぇじゃねーか!!

 とは思いましたw

 

 

 

 

 

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』俺は全力で肯定する! 〜後編(本編)〜 新説あり!

どうも。

sho-ichiです。

 

前回、衝動に駆られて書き出したところ

長くなりすぎた『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の肯定意見ですが、いよいよ本題です。

 

僕としては『ドラゴンクエスト』を映画化するにはこの方法しか無かったし、最善策だったと断言します!!

 

※映画のあらすじや、僕のドラクエ歴(ENIX遍歴)は前回のブログに掲載してます。

newedu.hateblo.jp

 

 

これが最善の策だった!!

さて、早速核心ですが、僕は今回の作品『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が、

というか『ドラゴンクエスト』という作品そのものが一貫して最も大切にしているものは、

プレイヤーひとりひとりが主人公であり、各自が持っている「ドラクエ像」こそが真実である、という世界観だと思います。

 

本作はその『ドラゴンクエスト』の本質を確実に守り抜きつつ、改めて自分自身の中のドラクエの魅力を強く回顧させてくれる機能があったし、それこそがこの作品の素晴らしく秀逸なところ、かつ、本当のねらいだったんじゃないでしょうか。

 

わかりやすく言うと、

ドラクエ世界を具現化することで、「やっぱドラクエいいよなー」とプレイヤーに想い起こさせるキッカケをめちゃくちゃ綺麗に描いてくれて、だけど最後に

「このストーリー楽しんでくれたのは嬉しいけど、映画だからっつってこれが"公式な"ドラクエの世界観だとか思ってないし、そんなこと押し付けるのってドラクエらしくないっすよね!」

「本当の『ドラゴンクエスト』の世界はゲームでプレイした時に、そのプレイヤー自身の中にのみ生まれるもので、それこそがドラクエの魅力だよね!」

 

と宣言して、ゲーム『ドラゴンクエスト』を題材に作品づくりをする、映画化という試みそれ自体も、『ドラゴンクエスト』の楽しみ方だと言わんばかりに、ドラクエの懐の深さを示してくれる。

 

それによって

やっぱドラクエ最高かよ!!

 

ってなりました。

 

前回も書いたけど、

漫画とかでそれぞれ自由に解釈されて、作品ごとに違う魅力を発信して良いってのが、ドラクエのいいところっすよね。

だってフィンガーフレアボムズとかゴメちゃんとかゲームでそもそも出てきてなかったじゃん!

 

 

ドラクエの本質は「自分」が主人公であること

 大まかな主張は前項の通りですが、

ひとつひとつおさらいしていきましょう。

 

さて、まずは思い出して欲しいんです。

僕らがドラクエの何に魅力を感じてきたのかを。それはまさに自分自身が物語の主人公になれることですよね。

 

ドラクエは常に「自分が主人公として主体的に世界の中で冒険する」ための仕掛けづくりを最重要視してつくられてきたと僕は考えています。

 

30周年のライブスペクタクルツアーのテーマにもなってたけど、ドラクエに外せない「名前」をつける行為。決まったストーリーをなぞるだけなら要らない機能だったはず。

それどころか、職業決められるようになったり、仲間選べるようになったり、途中から性格診断してそれによってパラメータ変わるようにリメイクされた時もありましたよね。

あとは前回も書いたけど絶対「いいえ」って答えないと先進まない展開だとしても敢えて自分自身で答える機会を用意したり、花嫁選べたり、ストーリーと関係ない道草食えるようになってたり…

 

これは断言して間違ってないと思うけど、

ドラクエの主人公は常にプレイヤーひとりひとりであって、

 

プレイヤーがドラクエの世界で自由に、実際に生きられる

 

それを実現しようと追及してきたのが『ドラゴンクエスト』だったと思います。

だからそのストーリーは当然プレイヤーの数だけある。

そして、それらは全てが当人にとっての唯一無二の真実のストーリーなのです。

 

逆に考えてみてください。

あのまま「リュカ」という主人公の物語を最後まで観て「めでたしめでたし」で満足できますか?

自分自身の持ってるドラクエ像との微妙な違いに「良かったけど、もう少しこうだったら良かった…」みたいな小さな不満足がアチコチに小さく広がって、注目もされず消えていったのではないでしょうか?

 

 

味わうべきはドラクエの世界ではなく、ドラクエと出逢えた人生の素晴らしさ

 さて、ラスト手前で否応無しにメタ認知させられたわけですが、

その後のエンディングがとっても素晴らしいじゃないですか!!

 

何回も言いますけど、もし仮にあのまま「リュカの物語」だったとしてハッピーエンドになりました。そしたらどうですか?

「(リュカたち)よかったね」

で終わりですよね?

 

でもあの終わり方のお陰で、

「(ドラクエと出逢えて)よかったなぁ…(俺)」

って僕はなりました。

 

リュカはフリーザみたいなウィルスにこの世界はVRだと気付かされたわけです。そうして迎えたエンディングですが、

じゃぁ、もうビアンカやアルス、ゲラゲラやスラりんのことを大切に思っていないか?

そんなことないですよね!?

愛に満ちたラストだったと思います。

 

では、じゃぁ、リュカはこのままこの世界に留まっていたい、この世界がVRだという現実を受け入れたくないか、

これも違いますよね??

家族との時間を惜しみながらもサンタローズに(ゲームのエンディングに)向かっていくわけです。

 

でも、

これこそが、

プレイヤーとして『ドラゴンクエスト』を愛している僕らのリアルじゃないですか!?

 

全クリして嬉しい、とか、

ストーリーが感動した、とか

そういう楽しみ方じゃないですよね。

そもそもドラクエって。

 

実際にゲームの中で冒険をして、

仲間との別れがあったり、挫折や成功があって、ドラクエの中で冒険するお陰で、

「仲間を大切にしなきゃ」とか「時には勇気を出して戦わなきゃ」とか、実際に自分が成長できる。

まさに、ゲームを通して自分の人生を生きられるからめちゃくちゃイイんじゃないですか。

 

そもそもドラクエは自分の人生と不可分なわけです。

 

ドラクエドラクエの世界の中で閉じてたらそれこそドラクエじゃないんすよ!!

そのことにきちんと作品の中で触れてくれたことが、僕は嬉しかったですね。

 

ドラゴンクエスト』はゲームとして現実にそこにあるからこそ、

自分の人生といつまでもともにあるわけで、あのラストは決して別れじゃなかったんだと思うんですよね…

 

 

言いたいことはわかるがそれも「想定内」なのでは…?

 

ドラクエはプレイヤーが主人公だから敢えてどんでん返しを仕組んで、

このストーリーもあくまでもリュカって人のストーリーだったんだよ。

っていう展開にするのがBetterだった、という意見は ある程度理解されるものと思います。

 

が、多くの人が言いたいのは、

フリーザ風ウィルスの「大人になれ」発言に対して納得がいかない、

とか

映画のストーリーがゲームだったという展開にするにしても、もう少しマシな方法があるだろ!

ということなんですよね…(^^;)

 

ここはまぁ、正直そういう意見があることはしょうがないと思います。

否定はできません。僕も概ね悪くなかったとは思っていますが、

何もドラクエⅤのスーファミカセットまでリアルに登場させなくてもいいのに…

とかは思いました…

 

ただ、このシーンの「見せ方」についてはあまり深く考えなくて良いのでは?

と思っています。

 

①敵キャラの発言にそんなに過剰反応しなくてよい

これは至極シンプルな意見なんですが、例えば悪役が「人間など生きる価値も無いわ!」って言ったら、その悪役が出てくる映画そのものを「なんてひどいメッセージを発する映画だ!」ってなります…?

あくまでもあれはゲームを否定している悪役からのメッセージなんだから、別にいいんじゃない?と思いました…

 

②そもそもこれは一見さん向けの作品ではない

中には今の時代は「ゲーム=子ども」という図式は成り立たないから、敵キャラの発言とはいえ的を射てない、という意見もたくさん見受けました。

が、これも断言します。そもそもこの作品はあくまでも長年のドラクエファンをターゲットにした作品だと思います。今現在20代後半~40代くらいの大人にとっては、

たとえ今そうでないとわかっていても、そういう経験とか先入観と戦ってきた歴史って持ってる人が多いと思います。

だから、これは敢えてあの古臭いメッセージを発信したんだと僕は思うんですけどね…

 

ラスト前のどんでん返しの話からは離れますが、批判の中には「初めて見た人にはわからない」という声もたくさんありました。特に前半かなり端折られていましたし…

でも、これも同じロジックで、ある程度初めて見る人でも楽しめるように端折りながらも大枠のストーリー詰め込んではいましたが、基本的にはプレイヤーひとり一人の記憶を借りながらストーリーを補完する仕組みになっていたと思いますよ。

(例えばフローラがお婆に変身してたのも変化の杖を使ったからですが、あれが「変化の杖だ」という説明してないから、「この世界ではだれでも魔法が使えるの?」みたいな解釈になっちゃうと思います。でもそんなこといちいち説明してらんないですよね…)

 

③使い古されたオチは選択肢でしかない

あとは、「現実だと思っていた世界が実はゲームでした」とか「夢でした」っていう展開がありきたりであるというような批判も目立っていたような気もします。

が、ありきたりなくらい使い古されたものであればなおさら、別に使ったっていいじゃん。と思いました。

まして、『ドラゴンクエスト』はそもそもゲームなわけで、「ゲームでした」ってオチには必然性もあるわけで、「突然すぎる」という批判もあると思いますが、そもそも最初からゲームじゃんwっていう…

それに、僕としては、そのあとのサンタローズの見える丘のシーンがオチというかラストシーンだと思うので、別に悪くなかったと思います。

 

それに、あの展開のおかげで、

妖精の村でロボットが出てくる件だけでなく、

幼少期が省略されていることとか、主人公のキャラが頼りないこととか、子供が双子じゃないこととか、フローラに対して失礼すぎだろ!とかいう様々な違和感にも説明がつけられている(これはドラクエVのオリジナルを映画にしたものではないですよと)

ということも、よかったと思います。

 

 まだほとんどの人がたどり着いていない真実…?

 最後に、僕も核心は持てていないのですが、

まだ引っかかっていることがあるんです…

 

それは

追加キャラクター 1

 

とは誰のことなのか?という点です。

 

本作ではオリジナルの設定も結構たくさんありました。

しかし主だったキャラで、原作にいない追加キャラっていました??

 

この件に関しては、この方の視点が突破口なのではないか?と感じました。

転載させていただきます! 

omamesensei2.hatenadiary.jp

 

 すなわち、

最後に出てきたフリーザ風のウィルスというキャラ自体が

追加されたゲーム内のプログラムそのものだというものです。

 

で、この方の記事には書いていないんですが、

僕は「その証拠」となるシーンについても当たりをつけています。

 

皆さん覚えていらっしゃると思いますが、

プサンがエルフの村をロボットが守っているという話をした時に

「今回は」と言っていましたよね。

それは、VRで主人公がそう設定したからです。

 

そして実は、もう一箇所「今回は」と発言されているシーンがあったことはご記憶されていますか?

 

それは、マーサが死ぬ直前です。

「今回(のミルドラース)は」今までと違う、

みたいなこと言ってましたよね。

ウィルスくんもマーサは気づいていたようだ、というようなことを言ってましたから、

マーサがウィルスに気づいていた、ということは、皆さん納得かと思います。

 

もし仮にこの「今回は」というワードが、ゲーム内の設定だという意味を表すキーになっていたとしたら、追加キャラクターとして現れたウィルスそのものの存在も、ゲーム内の演出ということになりませんか?

 

そうすると、

今まで「映画の途中で現実に引き戻される」と非難していた映画作品が

主人公が体験しているVR作品と全くイコールになりますよね。

となると、

僕らは「「途中で現実に引き戻された」という演出を伴った劇中のVR作品そのものを、映画の上映から終了まで、結局現実(映画館に行っている私)に引き戻されることなく最後まで楽しみ切っている」ということになってしまうのです!

 

 

【解説】

(映画ユア・ストーリー)=(DQⅤ)+(本当はVRだったという現実)

上記のように解釈していたために、後者は要らないだろ!とか、そういう設定だとしてももっと良い表現が!と議論されているわけですが、

実は

(映画ユア・ストーリー)=(DQVをモチーフにしたVRそのもの)

※そもそもラスボスがウィルスという設定のVRゲーム

なのではないか?ということ。

 

 

でも、

だとしたらこれ、

めちゃくちゃすごくないですか??

 

「あの作品はなんなんだ!!」

と気付かずに酷評してる間中、その人はまだずっと、その作品(VR=映画)の中に没入させられてるわけです!!

 

少なくとも

映画そのものは確実にわざとあのシーンを入れ込んでるわけで、

そういう意味では、

きっと同じように(スクエア)ENIXのスタッフが作ったであろう映画内で登場するVRゲーム自体も、映画と全く同じく、わざとあのキャラを登場させていると考えてもおかしくないですよね??

 

で、

もし仮に今回の映画が

(映画ユア・ストーリー)=(DQVをモチーフにしたVRゲームそのもの)

だとしたら、

さっき説明した、

 

ドラクエというゲームは自分のリアルな人生と不可分である

 

って話ともピッタリ合致するんですよ。

現実とドラクエは分かれていないんです。

現実=ドラクエなんです。

 

これに気づきまして、

 

完全にやられた…!!!

そして、みんなまだやられ続けとるww!!

 

 

ってなっているわけです。

 

 

最後に

 そんなわけで僕としては、

この作品はかなり深いし、

ドラクエの実写化」とか、「ドラクエを題材にしてファンに何かメッセージを伝えてる」とかいうレベルじゃない!と思いました。

 

ドラゴンクエスト 』という作品とプレイヤーの人生との関係性そのものを完全に表している作品なのだ…と震えているわけです。

 

この説、

もし賛同してくださる方がいれば、是非シェアしてください!!

今の世間の酷評を、もし僕らの手で変えられたら、そんな素晴らしい冒険は無いと思います!!

 

 

ちなみに、

僕としてはこの解釈があっていてもあっていなくても、そう信じ続けていきます。

何故なら、僕らの愛するドラクエにはそうやって自分なりに解釈する自由が、それを自分なりに表現する自由があると思っているので!!

 

ドラクエサイコー!!